開設した理由
頭で鳴り響くことを整理したいと思い始めました。
それらは愛とか死(希死思慮)とかの話ですが、死を願うと言っても明日死にたいとか自殺方法を考えたいとか全く思っておらず、今は死なない意志を思っているためそういう意味での深刻なものではありません。
それらはどちらもこの世の理のようにただただ当然に在るもので、誰かや何かに救われるとか変質させられることは不可能だろうと考えています。
私はL'Arc〜en〜Cielのメンバーを愛しているし、また、彼らや哲学者たちが追求しようとしている真理や究極的な根拠への意欲もあるのに、なぜこんなに真っ白に死んでしまいたいとも思うのかを考えたいと思いました。
愛について
どう愛しているかというと、人生を捧げた気持ちでいるし、そしてこれからどんな駄作を作ってもどんな行動をしても今の想いは変わらない(変えない)というものです。
彼らがいなかったら意味を持って生きていないと思うから、受けた生は返す!という感じ。
希死念慮の理由
手垢のついた議論なのでしょうが、生きる意味を与えられないまま究極のやらされ仕事として生を与えられて、かつそれを対象化し疑い批判する能力を持っているから、どうしても意味が分からないというようなこと。
日常の辛苦の経験がこの想いを誘発するのではあるけど、でも何もそれがない時もスーッと現れる。
意味が分からないから、さらに辛苦や悲哀が発生した時に、意味が分からないことをやらされている上になぜこんなことに耐えなければならないのか、意味がないから早く終わりにしなければ、と考えるのだと思う。
愛と存在の関係
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」では、最後バスチアンは「愛すること」に究極の価値を見出して現実世界に戻っていった。
「愛すること」が生きる意欲に繋がるのは、愛する人やものに対して、何か自分が効力を持つ場合に限るのではないかと思う。
愛する対象が何も必要としない時に、自分と相手に関係を作ろうとしたところで無意味なのだから、自分は何もする必要がない。
課題1
それでも、「自分が相手に対して効力を持たない」ことを証明するのは難しい、実際効力を持つ可能性は絶対に有る、としか言えない。
頑張って会って、その人が好きなものをプレゼントするとか。頑張り次第で効力は発揮できると思う。
そうすると、愛する人なのだからその人へ最大に献身しなければならないとすると、何か与えられるようにできるだけ生きて頑張り続けるべき、ということになる。
希死念慮を持つ人間は、それよりも、個人的な嫌なことを忌避したい欲求の方を優先してしまう怠惰な人間になるのでは?
課題2
「愛する人なのだからその人へ最大に献身しなければならない」ということは、倫理なのか?(ではない気がする)個人の欲求の範疇なのか?
課題3
普通の人は、他者を愛することと同時に自己愛も醸成されていくのではないかと思う(だから、愛する人を見つけると自分も良くなるし、相手を自分が良くしようと意欲する)
それは、必ず起こることなのか?(私にはあまり起こってないように思える)なぜ起こるのか?